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第5回 下水道れきし旅~古代から現代へ~

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古代都市の下水道~都城(藤原京~平安京)のまちづくり~

平城京模型

▲平城京模型
(出典:「よみがえる奈良~平城京~」奈良国立文化財研究所監修)

平城京にみられる側溝の構造

▲平城京にみられる側溝の構造
(出典:「平城京~古代の都市計画と建築~」草思社)

長岡京の側溝遺跡

▲長岡京の側溝遺跡(東2坊大路西側)

壬申の乱を制し、古代天皇制を強化した天武天皇が崩御すると、持統 8 年(694 年)持統天皇が即位しました。持統天皇は中央集権国家を確立するために、京(天皇の住む都)を飛鳥から藤原の地に遷都し、新しい都市づくりを開始しました。目指したのは我が国最初の都城でした。都城とは、京内において、東西南北に碁盤目状に整然と道路を配置した都市です。京は東西約5.2km、南北約4.8kmという当時としては大変大きな規模でした。
藤原京は比較的低湿地であったために、土地を乾燥させる必要がありました。そのため、道路脇に側溝を堀り、雨水を排除できるようにしました。このように京の全域に張り巡らされた側溝は、システム化された下水道と言っても過言ではありません。もし、雨水排除のための下水道が無ければ、雨天時には道路がぬかるみ、人の往来や物資の運搬に支障をきたしたと考えられます。つまり、側溝は、京の都市活動や経済活動を円滑に支えるインフラストラクチャ―だったのです。7世紀に入ると、このような大規模な土木工事が行われるようになりましたが、それだけ国家が力をつけた証しと言えるでしょう。
しかしながら、藤原京は短命に終わり、和銅元年(708 年)天明天皇は平城に遷都します。74 年続いた平城京は、延暦 3 年(784 年)桓武天皇が長岡京に、さらに 10 年後の延暦 13 年(794 年)に平安京へと遷都しました。これらの京はいずれも都城であり、都市の構造はほぼ同じです。しかし、遷都には大変な財政負担を強いられますので、平安京以後遷都はなくなりました。側溝の構造は図に示されたような造りで、写真は長岡京で発掘された遺構を示しています。側溝に堆積した土砂やゴミは役所の「京職」という部署が住民を動員して清掃し、作業手当としてなにがしかのお米を配給しました。しかし、あまり頻繁には行われていなかったようです。

(月水土楽人)

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